リーダーに学ぶ生き方 「本当の自分」とは 池田晶子さんの言葉(前編)

(1)「どう考え どう生きるか」ということ

2年ほど前、池田晶子さん没後10年というイベントがあって改めて「14歳の君へ」というタイトルの本を手にしました。最初にこの本を見つけたのは、中学校の図書室でしたが、その時「はじめに」を読んで、その言葉の力強さに圧倒されました。この本は、タイトル通り、中学生でも読めるような文体で書かれていますが、大人になろうとしている若者にも、大人になってしまった人たちへも、まさに「どう考え どう生きるか」考えさせる内容になっています。「はじめに」から引用します。


14歳の君へ ~どう考え どう生きるか~

池田晶子 著 (2006年12月25日発行)

はじめに

君は、生きていることは、つらいことだと思っているだろうか。

 つらいこと、思うようにならないこと、望んでもいないこと、たくさんあるよね。あるいは、とくにこれと言ってつらいことがあるわけではないけど、なんとなく、面白くない、つまらない。大人の社会だってロクなことないみたいだし、このままそんなふうな大人になってゆくことに、どんな意味がある。

 そう感じる君は、ある意味で正しいよ。じっさいに、そういう時代なんだ。「時代」と言われても、何だかピンと来ないかもしれない。時代というのは、まあ要するに、君がなんとなく感じている世の中の雰囲気、学校や家庭での人間関係、街の中での人々の態度、ニュースで報道される国内や国外の事件、そういうものに君が感じるその感じのことだ。そういうものは、今、どうひいき目に見ても、いいものではない。敏感な君が感じているその通りなんだ。

 だって、学校では下手をすればいじめられるし、家へ帰れば勉強しろと言われるばかり、ニュースなんか見る限り、世の中は殺人と戦争と金もうけばかりだ。こんな世の中で、これから生きてゆくことに、どんな意味がある。生き残るためには、まるで殺し合いと金もうけしかないみたいじゃないか。未来への希望を語れなんて言われたって、空々しくて、とても言えたもんじゃない。

 ああ、困ったものだ。本当に困ったものだ。じつは世界中の大人たちもみんな困っているんだ。どうすればいいのかわからなくてね。そんな困った大人の社会で、これからイヤでも生きてゆかなければならない君は、さあ、どうやって生きてゆけばいいのだろう。

 いや、ここで問い方を変えてみよう。やっぱりどうやって生きてゆけばいいのかわからない大人たちで、この世界は混乱しきっている。わからないから大人たちは、人をだましたり、人を蹴落としたり、ずるいこと悪いことをしながら、とにかく自分だけは生きてゆければいいと思ってしまうんだ。それで世の中全体が、いよいよ悪いことになってゆくんだ。だから、君は、ここで本当は、こう問うべきなんだ。なぜ人は生きてゆかなければならないのか。生きてゆくためなら、悪いことをしてでも生きてゆければいいのか。

(中略)

 大人になって、悪いことをしなければ、生きてゆけないという状況に置かれたとする。君は、悪いことをして、悪い心の人間になっても、生きてゆければいいと思うだろうか。では、その時、何のために生きてゆかなければならないのだろうか。

 人が生きてゆくのは、よい人生を生きるためだ。自分にとってのよい人生、幸福な人生を生きることが、すべての人の人生の目的だ。悪い人生、不幸な人生を生きたいと願う人はいない。すべての人は、よい人生を生きることを願っている。それなら、人は、悪い心でよい人生を生きることはできるだろうか。人をだましたり、人を蹴落としたりしながら生きてゆく人が、よい人生、幸福な人生を生きていると君は思うかい?

 悪い心になった時、人はよい人生を生きることができなくなるのだから、生きる目的だって、本当はなくなっているんだ。悪い心になってまで生きなければならない理由なんか、本当はないんだ。このことに気がつくのが怖いから、世のほとんどの大人たちは、適当に悪いことをしながら、悪いことをしている自分をごまかしながら、なんとなく生きてゆくことになっている。こういう人生を幸福な人生だと君は思うかい?

 もし君が本当に幸福な人生を生きたいと願うのなら、だから、遅かれ早かれ、死への恐怖と対面し、これを克服しなくちゃならない。今すぐでなくてもいい。でもそれはいつか必ずしなくちゃならないことだ。難しいことだ。大変なことだ。これは人生の一番大変な課題なんだ。だって君は、幸福な人生を生きなくちゃならないからだ。

 大丈夫、そう思っているなら、そう思っているそのことで、必ず幸福な人生を生きることになる。たとえどんなに不幸な時代であっても、幸福な人が不幸になることだけは決してないと、約束するよ。

 この本が、これからの君の人生の、ささやかな支えになることを願っています。


プロフィール
池田晶子(いけだあきこ)
1960年(昭和35年)8月21日、東京生まれ。1983年(昭和58年)3月、慶應義塾大学文学部哲学科倫理学専攻を卒業。文筆家と自称する。「哲学エッセイ」を確立して、多くの読者を得る。2007年(平成19年)2月23日死去。没後、夫の伊藤實を理事長としてNPO法人「わたくし、つまりnobody」が設立され、(池田晶子記念)わたくし、つまりnobody賞が創設された。


(2)「ほんとうの自分・ほんとうの友達」とは

「複雑な感情、全部捨てちゃえ!・・・」

シンガーソングライターで塾員でもあるmiwaさんがドラマ「凪のお暇」の挿入曲として書いた「リブート」という曲の一節です。「凪のお暇」は主人公のOL、凪が周囲の空気を読みすぎて、過呼吸にまでなってしまい、すべてを捨ててゼロからやり直そうとするドラマです。若者が就職した会社を1年足らずでやめてしまう、退職代行なるサービスまである時代。人間関係は本当に難しい。

以下、「14歳の君へ ~どう考え どう生きるか~(池田晶子著)」から引用

1-1. 友 愛

 好きな友達、嫌いな友達というのが、必ずいるよね。いや、嫌いな友達のことを「友達」とは呼ばないから、普通は、互いに好き合っていて、仲のよい人同士のことを友達同士と呼ぶのかな。

(中略 以降 空白行)

 とくに最近の君たちは、人に嫌われるということが、とにかくイヤなことのようだ。イヤというよりも怖いというくらいなのかな、人に嫌われるのが怖い、嫌われたくない。そういう思いで、友達づき合いや、友達探しをしている人が多いみたいだ。

 人に嫌われたくないそういう人は、当然、人に好かれようとする。人に好かれるための言動をするようになるだろう、たとえば自分をよく見せようとしたり、逆に目立たないように皆と同じようにしようとしたり、心の中であれこれ工夫をするだろう。そういうことをしているうちに何だかくたびれてきて、こんなの本当の私じゃないな、本当の友達が欲しいなと、思うようになるのじゃないのかな。

 まさにその通りなんだ。君が本当の君じゃないから、君にはいつまでも本当の友達ができないんだ。人に嫌われたくない、好かれたいというその思いが、君を本当の君でなくしているんだ。だって、人から好かれようが嫌われようが、人が君をどう思おうが、君は君でしかないじゃないか。本当の自分じゃない君に、どうして本当の友達ができるだろう。本当の友達というのは、いいところも悪いところもありのままに見せ合って、それでも互いに好き合っている関係のことを言うんだ。

 人に嫌われたくない、好かれたいと思うのは、人に認められたいと思うからだ。人に自分を認められたいと思うのは、自分で自分を認めていないからだ。認めていない、認められない。つまり自分に自信がないからだ。自分に自信がないから、人に認められることで、はじめて自分を認められるように思うんだね。

 だけど、そんな仕方で人に認められて、それが何だというんだい? 相変わらず君は、本当の自分ではないし、ありのままの自分を見せることもできない。空しさは少しも満たされてないんじゃないかな。

 ありのままの自分なんか見せたら、嫌われるかもしれないって?

 かまわないじゃないか。ありのままの君が嫌いな人とは、友達にならなければいいだけじゃないか。

 本当の自分ではない、自分に自信がない人ほど、人に嫌われたくなくて、好かれようとするだろう。だけど、そんなふうにして人の気を引こうとしている人が、人にとって、どうして魅力的だろう。君だって、そういう友達は、わざとらしいな、つまらないなと感じるはずだ。

 人に好かれようとするよりも、人を好きになる方が、断然面白いことだと思わないか。人の目を気にして、あれこれ自分を偽るよりも、あっ、この人はステキだな、この人と友達になりたいな、そういう人を見つけて好きになる方が、はるかに楽しいことじゃないか。

 好きになっても、嫌われたら悲しいって?

 かまわないじゃないか。もし君が自分で自分を認めていて、本当の自分に自信があるのなら、嫌われたって傷つかないはずだ。厚かましい人だって思うような人なら、しょせんそれだけの人だったんだ。残念、君の見る目がなかったね。

 人に好かれようとするよりも、人を好きになるようにしよう。こう気持ちを切り換えてごらん。自分に自信がない君も、それだけで何だか自信がわいてくるんじゃないかな。だって、人に好かれることは、自分じゃどうもできないことだけど、人を好きになることなら、自分でできることだからね。自分でできることをするのでなければ、やっぱり面白くないじゃないか。

 そういうふうに、好かれようとせずに好きになろうとする。そういう君は、人目を気にせずに自然にふるまっているはずだから、結局、人に好かれることになるだろう。そういう人、その人がその人らしいのが、人には一番魅力的に見えるものなんだ。

 むろん、嫌われることもあるかもしれない、これは当然のことだ。君を好きな人と同じ数だけ、君を嫌いな人がいる そう思っていれば、問違いないだろう。誰にでも好かれようなんて、君が誰でもないのでなければ、不可能ってものだよ。

 もし君が、人に好かれたい、友達がたくさん欲しいと思うなら、そういう人(優しい人や正直な人)になるしかない。優しいフリをして好かれようとしたってダメだ。だってそれは、ウソをついていることになるからだ。本当の自分を隠して、ウソの自分を見せることだからだ。ウソつきを友達にしたいとは人は思わない。ウソでなくて、本当の君が、優しくて正直な人なのでなければ、君は本当に人に好かれて、たくさんの友達をもつことはできないんだ。

 人が、優しい人や正直な人を友達にしたいと思うのは、そういう人とでなければ、本当の友情を育てることができないからだ。優しいフリをしているだけのウソつきの人だったら、もし友達が困った時に、助けてくれたりしないだろう。だって、優しいフリしてるだけで、本当は意地悪で冷たい人だからだ。でも、困った時に助けてくれない友達を、どうして友達と呼べるだろう。困った時には、友達のありがたさがよくわかる。友達の真価は、困った時にこそわかるものなんだ。

 だからといって、この人は困った時に助けてくれそうだな、そう計算して友達になるのも、やっばり友達とは呼べないね。そういうずるい計算をする人を友達にしたいとは、やっぱり人は思わないからだ。

君の側から考えてごらん。君は、君の友達が困っている峙に、助けてあげるだけの優しさがあるだろうか。それだけ十分にその人のことが好きだろうか。自分が困っている時は肋けてほしいけど、相手が困っている時は助けてあげない。これじゃとても友情とは呼べないよ。

 でも、もし君の友達が、本当に優しくて計算しない人だったら、そういうずるくて意地悪な君のことでも、困っている時はお互いさまだって、助けてくれることがあるかもしれない。君は本当に素晴らしい友達をもったものだ。その友情を何よりも大事にして、君はその人からの友情に値するだけの人にならなければいけないよ。

 人を嫌いになるのはいけないことだ、と思っている人もいる。誰でも好きにならなくちゃ、誰とでも仲良くしなくちゃいけないってね。

 嫌いなものを無理に好きになろうとするのは、好き嫌いにこだわるまいとして、逆に好き嫌いにこだわっているんだ。でも、好き嫌いは好き嫌いとして、どうしても存在する。それなら、それはそれとして認めてこだわらないこと、これが「愛」というものなんだ。

 君は意外だろう。嫌いが嫌いで愛だなんて、変だと思うだろう。愛というのは好きというのと同じことだと思っていただろうとだけど、愛と好きとは違うんだ。愛は感情じゃない。愛は、好き嫌いを超えたもの、それがそこに存在することを認めるということだ。受け容れるということだ。ピーマンが嫌いでも、ピーマンが存在することは認める。あの人は嫌いだけど、あの人が存在することは受け容れる。そうすれば、嫌いという感情を持ちながらも、愛することができる。その人の存在を拒まずに受け容れることができるんだ。

 むろんこれができるようになるのは、とても大変なことだ。でも、誰かの存在を拒んでいる自分、誰かを憎んでいる自分て、すごく苦しいものだよね。憎しみで苦しみたくないのなら、君は、愛するしかないんだ。


(3)「自分が自分になる」とは

相田みつをさんの書の中に、「自分が自分にならないで、だれが自分になる」というものがあります。どうやら「自分」とは「なる」ものであって「探す」ものではないようです。

以下、「14歳の君へ ~どう考え どう生きるか~(池田晶子著)」から引用

1-2. 個 性

「あの人は個性的な人だ」と君が誰かの事を言う時、それはどういう意味でそう言っているだろうか。

どことなく人と違う、独特の感じがある、そういう雰囲気のある人のことだよね。

ところで。一方、君が「個性的な人になりなさい」と、大人に言われることもあるだろう。そう言われて君は、どうしますか。

 個性的になれと言われても、それはどんなふうになることを言うんだろう。強い人間になれと言われたら、つらいことにも挫くじ(くじ)けない人間になることだな。優しい人間になれと言われたら、弱い人をいたわる人間になることだな。だいたいそんなふうに具体的にイメージすることができるよね。

 だけど「個性的になれ」と言われても、具体的なイメージなんか全然わいてこない。そうなれと言われている「個性」というもののお手本が見つからない。「個性」なんてもの、どこにあるのだろう。

(中略 以降 空白行)

「本当に好きなこと」「本当の自分」というのがどこかにあって、それを探さなくちゃいけないのだと、最近は大人から思い込んでいる。

 これは大間違いだ。だって、何かが好きだけど、それが本当に好きなのかどうか、どうして自分でわかるのだろう。たとえば君は、何かのゲームが好きで、今は夢中になっている。だけどやがてそれにも飽きて、何か別の面白いことはないかなと、必ず探し始めるだろう。その時は好きだったけど、今は好きではないというのは、本当に好きではないということだ。でも、本当に好きなものが、きっとどこかにあるに違いないと探し続けて、結局何か好きだったのかわからずに終わる人生というのは、何だか空しい人生じゃないかな。

 たくさんの若者や大人が落ち込んでいる「自分探し」というのは、こういう不毛なものなんだ。

 一方で、何が好きで自分らしいか、うまく見つけられずに不安になる人は、今度は、他人の中に自分を見つけようとする。他人の中で自分らしいことが自分らしいことなんだとね。それが自己顕示という行動だ。他人に見られて認められたい、他人に認められて、はじめて自分は自分になれると、そういう人は思ってしまう。

 おかしなことだね。「自分らしく」あろうとして始めたはずの自分探しなのに、どうして人はいつまでも「本当の自分」を見つけられないのだろう。ひょっとしたら、「本当の自分」なんてのは、最初からないんじゃないか。ないものを見つけようとしているから、見つかるはずがないんじゃないか。

 「本当の自分」と言葉で言われると、そういうものが「ある」と、どうしても人は思ってしまう。しかし、「本当の自分」と言う時の、その「自分」とは、そもそも何なのか。それがわかっているのでなければ、それが見つからないのは決まっている。

 自分らしくありたいけれど、その自分が「ない」と思うから、君は自分を探すのだったね。だけど、その自分は「ある」のでなければ、どうして君は自分を探すことができるだろう。どこかへ探しに行かなくたって、自分は、いま、ここに、確実に存在しているじゃないか。

 「本当の自分」は、今ここにあるのだから、どうしてどこかに探しに行く必要があるだろう。探すから、見つからないんだ。なぜなら、あれやこれやの自分なんてものは、じつは「ない」ものだからだ。「ない」ものが見つからないのは道埋じやないか。

 逆に考えてみてもいい。本当の自分は「ある」と言ったけど、じゃあ、いったいそれは何だろう。それは、あれやこれやの自分じゃないから、これが自分だという仕方で示すことが、決してできないような自分だ。それなら、そんな自分も、じつは「ない」と言うこともできる。

 さて、あって、ないもの、「自分」の不思議。この面白さに気がついたら、君は、みんながやってる自分探しなんて、つまらなくてやってられなくなるはずだ。

 あれやこれやの自分探しの空しさに気がついて、そんなことをやめた君は、その時にこそ、本当に個性的な人になるだろう。

 何か好きとか、他人からどう見られるかとか、そういうことが自分なのじゃない。「本当の自分」は、そういうことに関係なく、今ここにあることだ。そうわかった君は、そういうことに惑わされることなく、自分がそうである仕方で、自分であるようになるだろう。自分でどうこうしようとしなくても、自(おの)ずからその人は、その人がその人であるところの人になる。そういう「自分」が、すべての人には必ずあるんだ。それが本当の意味での「個性」なんだ。

 「自(みずか)ら」ということと「自(おの)ずから」ということは違うことだ。「自(みずか)ら」は、自分の意図どうこうしようとすることで、「自(おの)ずから」は、自分の意図によらずに自然にそういうふうになることだ。君は、自(おの)ずから、そうなる人になればいい。自(みずか)らなろうとなんかしなくていい。そしたら君は、必ず個性的な人になる。

 たとえば、絵を描くことが好きな君は、どうしてもそうとしか描けない自分の描き方があることに気がついていないか。先生や友人に何と言われようと、自分は、こう描きたい、こうとしか描けない。それが君の個性だ。

 あるいは、友人の中でも、君は自分のものの感じ方が、皆とどうしても違っていることに気がつかないか。変だと言われても、自分にはどうしてもこうとしか感じられない。こうとしか振る舞えない。だとしたら、それが君の個性だ。

 だから、個性というのは、自分の好き嫌いとは違うことだとわかるだろう。だって、好きも嫌いも、自分にはこうとしかできないし、こうとしか感じられないんだから。

好き嫌いなら選べるけれど、君は君の個性を選べなかったんだから。

 そういう君の個性が、まわりの人とはひどく違ったものだとしたら、君が君らしく生きるということは、すごく大変なことだろう。世の人は、自分たちとはひどく違う人間を受け入れないからだ。それでも君は、自分らしく生きたい、妥協できないと思うなら、君は君の個性を最後まで全うすればいい。それで何かの仕事を為せば、後世は君を「天才」と認めるかもしれない。

 こんなふうに、「個性」というのは、他人がそれを認めるもの、あれがあの人の個性だと言うものであって、自(みずか)ら求めるものではないんだ。君が誰かを個性的な人だと感じる時、その人は、どことなく人と違う、独特の雰囲気をもっているね。それは、その人が、自分で自分をどうこうしようという意図をもってないからだ。自分がもって生まれたその個性に従って、自(おの)ずからそうなる自分であるからだ。そういう本当に個性的な人間に、君はなりたいと思わないか。

 「自分らしく」を求めることが、自分を自分らしくなくしている。この逆説について、もう一度ひとりで考えてみよう。

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