リーダーに学ぶ生き方 「本当の自分」とは 池田晶子さんの言葉(後編)

(4)幸福とは

「しあわせは いつも 自分のこころが きめる」

相田みつをさんの書の中で、私が最も好きなもののひとつです。

以下、「14歳の君へ ~どう考え どう生きるか~(池田晶子著)」から引用

4-3. 幸 福

 誰でも毎年、お正月なんかには、今年はどんな年にしようとか、どんなことを目標にしようとか、ちょっとは心に決めるものだ。でもまあ、だいたいそんなのは、三日で忘れちゃうようなものだから、ここではもっとでっかい目標について考えてみないか。一度決めたら、一生忘れないような目標、つまり人生の目標についてだ。

 「人生の目標」というと、「将来の夢」のことかと君は思うかもしれない。将来何になりたいと思うか、そんな作文を、小学生の時に書かされたことがあるだろう。宇宙飛行士になりたいとか、スチュワーデスになりたいとか、君は書いたはずだ。その頃抱いていた夢を、君はまだもっているだろうか。まだもっていて、それに向かって努力している人もいるかもしれないし、そんなの無理だよ、しょせん夢だよって、あきらめて、これも忘れちゃった人もいるかもしれない。

 でも、いずれにせよ、「人生の目標」と「将来の夢」とは、似ているけれども違うものだ。「将来の夢」として、人はそれぞれいろいろな職業や生活の夢を思い描くけれども、「人生の目標」というのは、人によってそれぞれ違わない、すべての人に同じ共通している目標だと言っていい。それは何だと思う?

 たとえば君は、なぜ白分かその将来の夢を抱いたのかを思い出してごらん。宇宙飛行士になって、宇宙を飛べたら素晴らしいだろうな、スチュワーデスになって外国へ行けたら楽しいだろうな。それぞれの性格や興味のもちようによって、それぞれの夢を具体的な形で描くんだね。さて、そういう仕方で人がそれぞれ将来の夢を具体的に描く時、そこで共通して求められているものは何だろう。素晴らしいだろう楽しいだろうことを求めるとは、何を求めることなのだろう。

 そうだ。「幸福」だ。すべての人が共通して求めているものは幸福だ。素晴らしい楽しいことを求めるということは、幸福を求めるということなんだ。素晴らしい楽しいと思われるそのことは、人によってそれぞれ違う。だけど素晴らしい楽しいことを求めるということは、そのことによって幸福を求めているということに他ならない。すべての人は幸福になることを必ず求めている。幸福になることを求めない人、幸福を求めない人は一人としていない。どうだ、君は、幸福になりたいと思ってはいないか。

 思っていないはずがないよね。いろんな思い、いろんな仕方で、人は何かを求めるけれど、その最も深いところで求めているものは、誰も必ず幸福だ。幸福こそが、すべての人の「人生の目標」ということだ。ちょっとひねくれて、僕はべつに不幸でもいいよ、なんて言ってる君、不幸を求めるという仕方で、やっぱり自分は幸福を求めているということに気がつかないか。

 幸福は、すべての人が必ず求めているものだ。それはすべての人に共通する「人生の目標」であって、それぞれいろいろな「将来の夢」とは違うものだということだ。

 では、すべての人が必ず求めるところのその「幸福」とは、何だろう。人は必ずそれを求めるけれども、どうすればそれは手に入れられるのだろう。

 君は、「将来の夢」というのを具体的にもっている。宇宙飛行士になれば、スチュワ-デスになれば、幸福になれると思うからだ。だけど、ここでよく考えてみよう。夢に抱いていた職業や生活が実現するということが、幸福になるということなんだろうか。幸福とは、職業や生活のことなんだろうか。

 たとえば君は、努力して、憧れの宇宙飛行士になったとする。ずっと憧れていた夢の職業についたのだから、君はとても幸福になっているはずだ。だけど、仕事はすごくきつくて、毎日ヘトヘトに疲れ、給料だって思ったより安い。家族には文句を言われるし、自分も病気になってしまった。なんだ夢の宇宙飛行士の生活って、こんなものだったのか。ちっとも幸福じゃないじゃないか。

 そんなふうに思うようにならないとも限らない。どうしてこうなるのだろう。もっと極端な例で考えよう。

 最近は「将来の夢」として、「金持ちになりたい」と言う人が多い。宇宙旅行だってお金で買える時代だ。苦労して宇宙飛行士になる必要なんかない。お金があれば何でもできる。そう思うのも無理はない。「金持ちになりたい」と思うのは、金持ちになれば幸福になれると思うからだ。幸福はお金で買えると思うんだ。さて、これは本当だろうか。

 なるほど現代社会では、お金で買えないものなんか何もないみたいだ。豪華な家、豪華な服、豪華な旅行、お金があれば好きなだけ買えるし、お金があれば、人にもちやほやされて、寂しい思いをすることもない。だから、お金がすべて、お金さえあれば幸福なのだと、多くの人が思っている。

 だけど、これは問違いだ。豪華な家に住み、豪華な服を着ている人が幸福かというと、必ずしもそうではない。そういう人の心は、実はとても不幸で、満たされていないことがほとんどだ。なぜなら、お金持ちになるためには、人は必ず競争しなければならない。人をけ落とし、人の裏をかき、人に裏をかかれないように絶えず用心し、得たお金を失わないかと不安になり、寄ってくる人は金目当てではないかと常に疑う。信頼も知らず、愛も知らず、心の安まる時なんか全然ない。だけど、心の安まらない幸福なんて、幸福だと思うかい? いくら豪華な家に住み、いくら豪華な服を着ていても、その人の心は、不安で不幸なままなんだ。

 生活はお金で買うことができる。しかし、幸福をお金で買うことだけは絶対にできない。なぜなら、幸福とは、職業や生活のことではなくて、心のことだからだ。心が幸福になるのでなければ、人が幸福になることは、絶対にできないからだ。

 お金が幸福だと思う人は不幸だ。

 これは単純なことだ。お金が幸福だと思っていて、お金がない人は、お金がないのだから自分は不幸だと思うだろう。お金が幸福だと思っていて、お金がある人も、お金はもっとなければ自分はまだ不幸だと思うだろう。あってもなくても、お金が幸福だと思うこと自体が、人を不幸にしているんだ。なぜなら、お金は外のもので、幸福は内にしかないものだからだ。

 幸福というのを、お金に代表される、職業、生活、暮らしぶり、外から見てわかる形のことだと思うことで、人は間違える。どんな職業、どんな生活、どんな暮らしをしていても、その人の心が幸福でないなら、そんなものは幸福ではないということに気がつかないんだ。でも、幸福であるとは、心が幸福であるということ以外ではあり得ない。人がうらやむような生活をしていても、その人の心が幸福であるとは限らない。逆に、心さえ幸福なら、人から見ていかに不幸に見える生活をしていても、その人は幸福だ。他人からどう見えようとも、自分の幸福とは関係がない。これは当たり前なことじゃないか。幸福を他人と比べられると思うことで、人は自分を不幸にするんだ。

 不幸な心は、どんなにお金を積んでも、幸福な心を買うことだけはできない。豪華な家、豪華な服、豪華な旅行、欲しいものは何でも買えるけれど、本当は一番欲しいものであるはずの幸福な心だけは、買うことができないんだ。すると、一番欲しいものを買うことができないお金なんてもの、どうして人は欲しがるのだろう。逆に、お金ではどうしても買えない幸福な心というものは、どうすれば手に入れられるのだろう。

 簡単だ。幸福な心を手に入れるためには、幸福な心になればいい。人は、幸福な心になりさえすれば、誰も必ず幸福になれるんだ。心が幸福でないままに、外に幸福を求めようとするから、幸福になるのは難しくなっているだけなんだ。

 「心が幸福である」とはどういうことか、君は知りたいと思うだろう。そして、幸福な心になりたいと願うだろう。でも君は、本当はそんなことは全部わかっているんだ。たとえば君は、自分が不幸だと感じるのは、どんな時だろう。自分が気に入らなかったり、他人がねたましかったり、誰かを責めたくなったり、あれこれがこんなふうでなければいいのにと感じる時だね。すべてその逆を想像してみればいい。そうすれば君は、どんな心が幸福な心か、わかるはずだ。

 自分を認め、他人をねたまず、何かを誰かのせいにもしない。すべてそのまま受け容れる。そういう心が、不幸でない幸福な心だ。人は心で不幸になっている、自分で自分を不幸にしていると気づくなら、君の心はきっと幸福になるはずだ。

 そんなこととてもできません、て言いたくなるよね。だって、不幸は外からやってくるものだもの、私にはどうしようもないものだもの、とね。でも、外からやってくるものを受け止めるのは、やっぱり君の心でしかないよね。幸福も不幸も、すべて君の心次第なんだよ。

 「人生の目標」をもってみようというところから始まった話だった。すべての人に共通な「幸福になる」という人生の目標は、人それぞれに具体的な「将来の夢」とは違うものだということだったね。

じゃあ、人生の最終目標は「幸福になる」ということだったと気がついた君は、具体的な「将来の夢」の方は、どうしよう、外側の形に幸福を求めるから不幸になるなら、そんな夢はもたない方がいいのだろうか。

 そういうことではないんだ。「将来の夢」としての職業や生活は、君の努力や才能によって実現したりしなかったりするだろう。もし実現したとしたら、それはそれで幸福なことだ。だけど本当の幸福は、実現したその形の方ではなくて、あくまでも自分の心のありようの方なのだ。そのことを覚えていよう。そうすれば、形の側にどんな不幸が起こっても、君は不幸にならないだろう。幸福でいることができるだろう。

 そして、もし夢が実現しそうにないのなら、君はどこかでそれをあきらめなければならないね。努力が足りなかったか才能がなかったか、そう思ってあきらめなければならない。だけれども、幸福になることをあきらめる必要なんかない。君はそんなことでは不幸にはならない。なぜなら、幸福とは、職業や生活の形ではなくて、自分の心のありようそのものだからだ。

 「将来の夢」はあきらめても、「人生の目標」をあきらめなくてもいいのは、人生は死ぬまで続いているからだ。人生は死ぬまで続いているのだから、君は、幸福になることを、死ぬまであきらめなくてもいいんだ、もし自分でそれをあきらめさえしなければ。

 どんな生活、どんな職業であっても、生きている限り、不幸は必ずやってくる。つらくて苦しくて、自分はなんて不幸なんだろう、そういう時は誰にでも必ずやってくる。だけど、不幸は、いかにそれが外からやってくるもののように見えても、やはりどこまでも自分の心が作り出しているものなんだ。不幸だと思うその心が不幸なんだ。幸福だと思うその心が幸福なんだ。幸福も不幸も自分の心のありようなのだということを忘れさえしなければ、これからの人生、どんな困難に出合っても、君は幸福になることをあきらめずにいられるはずだ。

 さて、そうやって考えてくると、幸福になるということは、決して遠い「人生の目標」ではなかったということに、君は気がついただろうか。幸福になるために、幸福な心になるために、遠い先まで待つ必要なんかない。だって、君の心は、今ここにあるからだ。人生はもう始まっているからだ。

 もし君が今自分は不幸だと思うなら、今すぐに幸福になることができる。自分は不幸だと思うのをやめることで、今ここで幸福になることかできるんだ。幸福になるという目標は、目標として遠くに目ざすものではなくて、今ここでいつでも実現できることだったんだと気がついた時、人は本当に幸福を知ることになるんだね。


(5)人生とは

20年あまり前、研修部門に所属していたころ、「コヴィー・リーダーシップ研修」を受講しました。研修の中で、講師のジェームス・スキナー氏がロビン・ウィリアムズ主演の映画「今を生きる」の一場面を上映したのを覚えています。舞台となる全寮制の名門校で、主人公の先生が生徒たちを集めて、歴代の先輩たちが写っている写真の前で、ラテン語で「CarpeDiem(今を生きろ)」とささやくような低い声をあげるシーンが印象的でした。

竹内まりやさんの歌「人生の扉」の最後にある歌詞です。

But I still believe it's worth living.

以下、「14歳の君へ ~どう考え どう生きるか~(池田晶子著)」から引用

4-4. 人 生

 君は今中学生で、人生は始まったばかりだ。自分でもそう思っているね。

 将来何をしようかと希望をもったり、逆に将来をもう悲観しちゃったりしている人もいるかもしれない。いずれにせよ、君にとって、これから始まる人生とは、何をするとかしないとか、あれこれの具体的な自分の姿であるはずだ。それが希望だったり不安だったり、いろんな思いとなっているはずだ。

 ところで、人生というのは、そういう具体的な将来像のことを言うのだろうか。君が自分の具体的な将来像として想像しているものが、人生というものなのだろうか。

 たとえば、現代日本の平均寿命はだいたい80年と言われている。(執筆当時) まだ君の年代で、80になったら何をしようと計画している人は少ないと思うけど、それでも何となく、自分は80まで生きると思っているよね。人生は80年だから、あと70年はある。それまでの間何をしようかと、だいたいそういう考え方をしているはずだ。

 だけど、君が80歳まで生きるという保証は、いったいどこにあるだろうか。なるほど平均寿命は平均だけど、あくまでもそれは統計であって、生まれてすぐ死んじゃった人もいれば、百歳をとうに越えて生きた人もいる。その人がいくつまで生きるかということは、その時にならなければわからないことで、その人の寿命はじつは誰にも、むろん本人にもわからないことだ。

 君は今とても元気だけれど、明日事故に遭って死んでしまうかもしれない。20になる前に病気で死ぬこともあり得る。じゃあ、40、50に辿り着くなんて、いったい誰が保証しているのだろう。人生の先のことなんか、誰にもわかりやしないんだ。

 なのに君は、それがわかっていることであるかのように、将来に希望をもったり悲観したりしている。でも、そういうあれこれの将来像を描くことかできるのは、そもそも自分が生きていてこそだという当たり前のことがわかるだろう。だから、人生というのは、あれこれの将来像のことじゃない。それらの将来像が可能であるための、生きているということ、生きていることそのもののことを、「人生」と言うんだ。いつ死ぬかわからないのに、でも生きているというそのことをね。

 それじゃあ、その「生きている」ということは、どういうことなのだろう。それが人生であるところの、自分が生きているというこのことは。

 これがわからなければ、人生の将来像を描くことなどできないはずだよね。だって、それが何だかわからないものを、どうすればいいかわかるはずがないからだ。いつ死ぬかもわからないのに、将来のことを計画できるかな。逆に、いつまでも死なないかもしれないのに、何も計画しなくてもいいのかな。さあ、人生は、どう生きればいいのかな。

 君は、仕事をしたり家庭をもったりしながら、なんとなく平均寿命まで生きてゆくようなのが人生だと思っていただろう。

 でも、そういうことは何の根拠もない想像だとわかったね。なぜなら、先のことは決してわからない。そのことが一番はっきりわかるのが、自分はいつ死ぬかわからないということだ。

 人間は、必ず死ぬ。年をとってから死ぬんじゃない。生きている限り、すべての人は必ず死ぬのだから、それは明日かもしれないし、今夜かもしれない。死ぬきっかけはさまずまだ。事故や病気、自殺もあるけど、いずれにせよ人が死ぬのは、生きているからだ。生きているのは、生まれたからだ。生まれたのだから、人は死ぬ。

 この、ものすごく当たり前の事実を、しっかりと受け止めることだ。君はまだ、自分は死なないと何となく思っていないかな? でも、そんなことは絶対にない。生きている君は、絶対に死ぬ。この事実をしっかりと受け止めることこそが、しっかりと生きてゆくことを可能にするんだ。

 たとえば、人間は必ず死ぬ、どうせ死んでしまうのに何かをするなんて空しい。こういう言い方をする人がいる。これは正しいだろうか。

 そういう人は、せっかく生きているというのに、その生きている間を空しい思いをしてすごすわけだ。これは幸福な人生だろうか。

 あるいは、人間は必ず死ぬ。どうせ死んでしまうのだから、その時楽しければいいや。こういう言い方をする人もいる。これはどうだろう。

 そういう人は、苦しいことから逃げて、楽しいことだけを選ぼうとする。でも、逃げるということは、それ自体が苦しいことだ。じゃあ逃げ続ける人生は、はたして幸福な人生なのだろうか。

 さらには、人生の幸福とは楽しいことだと、楽しいことを求め続ける、飽きてしまうからさらに求める。どこまでも満たされることのないこういう人生は、幸福なのだろうか。

 こういう人のその生き方の聞違いは、「どうせ死ぬ」という、この「どうせ」にある。「どうせ」なんて諦めたように言えるほど、人間は死ぬということについて、何を知っているというのだろう。まるで、死んだら何もかもおしまいみたいに聞こえるじゃないか。でも、死んだら何もかもおしまいだなんてこと、いったい誰が知っているというのだろう!

 いいかい、生きている者は必ず死ぬ。これは絶対的なことだ。しかし、その「死ぬ」とはどういうことなのか、これもまた生きている者には絶対にわからないことなんだ。なぜなら、当たり前のことだ、生きている者は生きているからだ。生きている者に死ぬとはどういうことなのか、わかるわけがないじゃないか、そうじゃないか。

  生まれてから死ぬまで生きている人間には、その死ぬということがどういうことか、決してわからないで死ぬことがわからないのだから、生きていることはどういうことかだって、わからない。なぜなら死があっての生であり、生かあっての死だからだ。

 君の人生はこれから始まると、最初に言ったけれども、じつはこれは正確じゃない。

  君は生まれた時から、この不思議な人生というものを、もうすでに生きてしまっているんだ。このわけのわからない構造を生きてしまっているんだ。そうして、このわけのわからない構造としての人生において、これから、あれこれの将来像、人生の計画というのをもって生きてゆくことになるのだけれど、さて、君にはうまくできるかな。  

人生という構造の不思議に気がつくと、不思議は次々と現れることになる。まずは時間というものの不思議だ。普通は、時間というのは、生まれた時から死に向かって前方へ流れてゆくものだと思っている。でも、死はいつのことかわからない。生きている限り死んではいないとわかってしまうと、時間はどこへも流れなくなる。存在するのは現在だけだ。現在として存在する君が、過去や未来を思うことで時間は流れているという不思議に、やがて気がつくことになるはずだ。

さらに、現在が存在するとは、どういうことなのだろう。たとえば君は、星空を見上げる。無数の星々がきらめいている。何億光年向こうからやってきたと言われる光、

それを眺めているのは、しかし現在生きているその君だ。何億光年前のその光も、現在において輝いている。全宇宙とは、現在だ。君が見ているその宇宙だ。すると、君とは、いったい、誰だろう。

 ましてや、宇宙には始まりも終わりもない。ビッグバン理論は、人間の頭がこしらえたひとつの仮説だ。じゃあビッグバンの前は何だったろうと想像しているのは、他でもない君だ。始まりも終わりもない宇宙に、現在として存在している君は、いったいなぜ存在しているのだろう。君は、宇宙は、なぜ存在しているのだろう。

 こういうとんでもない不可思議に気がついてしまうと、将来何になって、80歳まで生きて、なんて人生像は、どうもつまらなくなっちゃうよね。けれども、それも確かに君の人生ではあるんだ。どういうわけだか人間は、こういうわけのわからない宇宙に生まれ、それぞれの人生を生きて死ぬということになっている。どうしてかと問われても、それは誰にもわからない。だって、どうして宇宙は存在して、どうして人は生きて死ぬのかなんて、いったい誰に問えばいいだろう!

さて、君は、これからどうやって生きてゆけばいいか、困っちゃっただろうか。こんな変な話、聞かなければよかった、普通に将来のこと計画してればよかったって。

 そんなことはないんだ。もし君が、本当の人生を生きたいと願うならね。

 君は、本当の人生と、ウソの人生と、どっちを生きたいと思うだろうか。

 本当の人生とは、人は必ず死ぬという事実をしっかりと受けとめて、しっかりと生きていく人生だ。ウソの人生とは、人は必ず死ぬという事実から逃げて、ごまかしながら生きていく人生だ。事実を受け止めるのは怖いから、見ないようにして、面白おかしく生きようとするのだけど、そんなのはウソだということを、じつはその人は必ずわかっている。一方、本当のことは、本当のことなんだから、受け止めてしまえばもう怖いものはない。さて、君はどっちの人生を生きたいと思うだろうか。

 本当のこと、生死や宇宙の不思議を知ったからといって、この人生を生きられなくなるわけじゃない。なぜなら君は、不思議なことを不思議なことだと知っている。人間が生きて死ぬということは不思議なことだ、そう知っている君は、誰か身近な人が死んでしまっても、ただ嘆き悲しむばかりではないはずだ。あるいは、宇宙に存在する人間は何をしているのだろう、その不思議を知っている君は、世の中の金もうけ競争に巻き込まれることもないはずだ。

 そんなふうに、不思議を知らない人が、人生の目の前のことに右往左往している時に、不思議を知っている君は、そのことの意味をしっかりと考えることができる。考えて生きることができる。不思議を知る人こそが、賢い人として、人生を本当に生きることができるんだ。

 ましてや、不思議を知り、それについて考えるなんて、これ以上の面白さが人間の人生にあるものだろうか。

 ものを考えるということは、人間の特権だ。動物はものを考えない。人生とは何か、宇宙とは何かなんて考えることはしない。考えないウソの人生を生きている人は、その意味では人間ではなくて動物だといっていい。でも考えない動物は死の不安もないから幸福だけど、考えない人間は死の不安だけは知っているから不幸だ。ものを考えないということは、不幸なことなんだ。そして、その不幸をまぎらわすために、その場の楽しみを求めるけど飽きる。その繰り返しで、その人の人生は終わってしまうんだ。

 しかし、不思議を不思議と知り、なおそれはどういうことかと考えることを知っている君は、飽きるということを知らない。だって、宇宙が、自分が、存在するということにおしまいがないというのに、そのことについて考えることにどうしておしまいがあるだろう! 君は、一生涯、この楽しみを迫ってゆくことができるんだ。これは、人間として生まれたことの最大の特権だ。これを知らずに人生が終わってもいいものだろうか。

 考えれば考えるほど、謎は深まる。考えているのは、他でもない、この人生が存在するという謎だから、考えるほどに、人生は味わい深い、面白いものになってくる。

どういうわけか生まれてきて、せっかく生きているのだから、この面白さを、めいっぱい楽しんでみたいとは思わないか。大変だけれども、やり甲斐のあることだ。ひょっとしたら、それが、このわけのわからない人生が存在するということの、意味なのかもしれないよ。


あとがき 保護者ならびに先生方へ

 「毎日中学生新聞」に、2005年8月から2006年9月まで、月ごとのテーマで毎週連載したものです。同紙がその3月をもって60年の歴史を閉じ廃刊となったために、半分は書き下ろしとなっています。項目ごとに四つないし五つの章立てなっているのは、連載時の形式のためですが、子供たちにはこの方が読みやすいかもしれません。目次は順不同です。

 前著「14歳からの哲学―考えるための教科書」では、かなり原理的なところから、ものごとの考え方を説き起こしたので、本書は、もう少し柔らかく、ある意味で読みやすく、エッセイふうに書いてみました。内容的には、両者にあまり変わりはありませんが、前著には(読ませる方としても)ちょっと歯が立たないなと思われる方は、本書の方がおすすめでしょう。逆に、本書で示されている考え方の原理的なバックボーンを知りたいと思われる方は、前著を参照していただけるとよろしいかと思います。

 さいわい前著は好評で、各地の学校で副読本として採用されているようですが、その後も打ち続く教育環境の退廃ぶりには、目を覆うものがあります。気の毒なのは子供たちです。せめて自ら考える力に目覚めることで、不幸な時代を生き抜く意味に気がつけばと願うものです。

 受験の役には立ちませんが、人生の役には必ず立ちます。

 皆様への信頼とともに。

2006年11月

著者

池田晶子(いけだあきこ)

1960年(昭和35年)8月21日、東京生まれ。1983年(昭和58年)3月、慶應義塾大学文学部哲学科倫理学専攻を卒業。文筆家と自称する。「哲学エッセイ」を確立して、多くの読者を得る。2007年(平成19年)2月23日死去。没後、夫の伊藤實を理事長としてNPO法人「わたくし、つまりnobody」が設立され、(池田晶子記念)わたくし、つまりnobody賞が創設された。

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